5.コーヒーと牛乳の相乗関係

今でこそ日本でも多くの人の日常に欠かせないコーヒーですが、明治初期にはまだ来日中の外国人やごく一部の西洋通な人々が消費する嗜好品でした。

そうした消費動向は牛乳も同様で、明治元年に中沢惣次郎(※中沢乳業株式会社の創業者)が烏森町(※現・新橋駅前付近)で牧場経営を開始した頃は、主な納品先が外国人向けのホテル等だったとのことです。

しかし西洋の医学知識が広まるにつれ、牛乳は次第に滋養強壮に良い食品として医師が推奨するようになります。当時の牛乳は現代のように均質化(ホモジナイズド)されておらず濃厚な味わいで飲みにくかったらしく、物理学者で随筆家の寺田寅彦は『コーヒー哲学序説』(昭和8年)にて以下のように記しています。

「八、九歳のころ医者の命令で始めて牛乳というものを飲まされた。当時まだ牛乳は少なくとも大衆一般の嗜好品でもなく、常用栄養品でもなく、主として病弱な人間の薬用品であったように見える。(※中略) 始めて飲んだ牛乳はやはり飲みにくい「おくすり」であったらしい。それを飲みやすくするために医者はこれに少量のコーヒーを配剤することを忘れなかった。粉にしたコーヒーをさらし木綿の小袋にほんのひとつまみちょっぴり入れたのを熱い牛乳の中に浸して、漢方の風邪薬かぜぐすりのように振り出し絞り出すのである。とにかくこの生まれて始めて味わったコーヒーの香味はすっかり田舎育ちの少年の私を心酔させてしまった」

寺田寅彦が8、9歳だったのは明治20年(1883年)頃であり、中沢乳業の創業から牛乳が一般的の個人向けの商材となるまでは約20年ほどかかったことになります。それはコーヒーについても同様で、この両者は明治期の消費シーンにて相互に一体化することにより普及したものと思われます。やがてこの飲み方に砂糖が加わることで、つい最近まで国内で流通する缶コーヒーのほとんどがミルク入り・砂糖入りだったことのルーツとも考えられそうです。

6.コーヒー・牛乳・パンによる喫茶店文化の始まり

日本や東京における「コーヒーを飲むお店」の元祖や原点については、現在その視点によって様々な説があります。豆の販売のみか、店内でコーヒーを飲めるか、食事も提供しているか、等々の条件によってそれぞれの「元祖」は変わってくるというのが現状と思われます。

そこでいわゆる「コーヒー店」とは別に現代における「カフェ」や「喫茶店」のルーツを探ってみると……明治26年(1893年)7月に凮月堂麻布支店が、「夏見世」と称する婦人も気軽に入れる喫茶室を運営していたことがわかります。アイスクリーム、氷水、コーヒー、紅茶、シロップ、ラムネ等を提供した、季節限定ながらも最古ともいうべき喫茶店のルーツとされています(『日本コーヒー史』)。この麻布のお店は 明治6年(1873年)に 総本店から暖簾分けにて発足したそうで、洋菓子とコーヒーを製菓業者が結び付けた最古の事例ともいえるでしょう。

さらに常設の店舗としては、明治29年(1896年)に木村屋の木村安兵衛氏が現在の新橋駅付近である芝区日陰町に工場を建設し、パンの製造を開始とともに工場の2階に喫茶室を設け、コーヒーや洋食の提供を開始しました。パンとコーヒーを製パン業者が結び付けた事例として、また現在につながる イートインや喫茶店の元祖と目されます(『近代日本食物史』昭和女子大学)。前回にてに紹介した中澤乳業の事例にもあるように、明治期の新橋では全国に先駆けて「コーヒー・牛乳・パン」の三要素が産業として揃うことにより、カフェあるいは喫茶店という文化のルーツが形成されたと言えるのではないでしょうか。

なおこの前年である明治28年(1888年)には鄭永慶氏による「可否茶館」が上野黒門町にオープンしていますが、こちらはビリヤード台やシャワー室も備えたいわゆる「複合カフェ」(現在のネットカフェ等を含む業態)の元祖ではないかと考えられます。 当時の鹿鳴館に象徴される上流人士の軽薄な欧化主義に対して、反発する精神を基に上質で知的な社交空間を実現したものの、残念ながら2~3年で閉店となったようです(『日本コーヒー史』)。

7.文献紹介①『明治時代東京区分図』 

こちらのコラムでは順次、コンテンツの制作時に参考となった文献も紹介していく予定です。今回は明治期の裏新橋エリアを地理的に垣間見ることのできる、『明治時代東京区分図』(1976年 槌田満文/編 東京堂出版/刊)を紹介いたします。

(続編を制作中)

※裏新橋のコーヒーにまつわる歴史エピソードを、引き続き今後も公開する予定です。