1.明治初期のコーヒー文化
日本で最も最初にコーヒーが販売された記録は、明治2年(1869年)に外国人エドワルズが「萬国新聞」(横浜)の第15号に「横浜裁判所向 八十五番 エドワルズ 生珈琲並焼珈琲」 との文言で広告を出した件が確認できます(日本コーヒー史』 p.97)。ただしこのお店での取り扱いは、豆の販売のみだったようです。
そして明治6年(1873年)10月、「新聞雑誌」(※紙媒体刊行物の固有名詞)第156号に西洋料理店の新聞広告があり、それらの店舗では食後にコーヒーが供されたものと思われます。築地や茅場町といった当時外国人が多かったエリアの「精養軒」(※掲載原文は「西洋軒」)等に並んで「芝神明東花堂」 の記載があり、裏新橋に近い芝大神宮付近にも有力な西洋料理店があったことが判ります(『日本コーヒー史』 p.100)。
2.鉄道開通とコーヒー
新橋~横浜間に鉄道が開通したのは明治5年(1872年)ですが、翌明治6年(1873年)には鉄道貨物の運賃について規定があったようです。
加非(コフィ―)=三級(四厘)
氷砂糖、砂糖(棒包)=三級
糖菓(くわし)舶来=五級(六厘)
つまりこの時点でコーヒーは、豆か粉の状態で横浜から新橋へと輸送されていたことが判ります(『日本コーヒー史』 p.96 )。当時の輸送費は容積や重量ではなく、品目の種類で決められたとのこと。米や炭といった生活必需品は安価ながら、コーヒー(「加非」)は砂糖や菓子と同様に、主に高級料理店で供される贅沢品扱いだったのです。裏新橋にほど近い汐留地区が当初の新橋駅だったことから、このエリアはもしかするとそれらの荷下ろし拠点だったのかもしれませんね。
3.政府系学校と洋風の生活
明治5年(1872年)、当時の政府お抱え外国人の一人であるケプロンにより、裏新橋の南西に位置する現在の芝公園北東部分に「開拓使仮学校」が開設されました(北海道大学の前身)。北海道開拓の要員を養成する学校としてその半数は敷地内の寄宿舎に住み、「……生活は全てが洋風で、“食事は洋食、バンと肉を主とし、米を使うのはライスカレーの時だけだった”」そうです( 『日本コーヒー史』 p.103)。
また明治7年(1874年)には「工部大学校」が現在の霞が関付近に開設され(東京大学工学部の前身)、
「寄宿舎内備品 英国輸入 食事 寄宿舎内の食事 朝は麺包(※パン)と鶏卵、珈琲。昼は一品なりとも洋食。晩食だけは日本食にして魚か肉が隔日」
(『日本コーヒー史』 p.102)との記録があります。こうした政府系の学校では当時から、24時間体制で国内でもいち早く西洋式のライフスタイルが実践されていました。そこでは当然のことながら、まだ一般には普及することのなかったコーヒーも日常的に飲まれたものと思われます。
4.文明開化と「芝家具」
明治期における裏新橋の地理的な特徴は、新しい交通の要衝たる「新橋駅」、西洋式のスタイルを採用した「開拓使仮学校」「工部大学校」、築地・銀座・芝等のかなり高級な「西洋料理店」に四方を隣接し囲まれていたことが挙げられます。
そのため大名屋敷が維新後に廃止されてからは、新たな市民がこの地で上記の顧客を背景に洋式の家具製造業を興しました。それらの高品質な製品は「芝家具」との名称でブランド化が進み、裏新橋界隈はハイカラな文明開化を支える街として隆盛を極めます。それらの仕事に従事する職人達で、特に「赤レンガ通り」周辺はかなりの賑わいを見せていました。
またそれらをプロデュースするビジネスオーナー達は外国人を相手中古家具の買取や販売も手掛けていたため、語学にも長けた人が多かったそうです。視察や研究のtらめに洋行経験を積み重ねる「ハイカラ紳士」のみなさんには、おそらくコーヒーをたしなむことが国内でもいち早く日常化していたのかもしれません。